「主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」民数記 11章23節 (2017新改訳)
民が食べ物のことで不平を言い始めます。
エジプトでは肉を食べ、たくさんの種類の野菜も食べていたのに、今は、マナしかないと文句を言い始めたのです。
モーセもまた、自分にだけ不平ばかりを口にする民を導く責任を負うことに耐えられなくなって、主に訴えるのです。
主はモーセに答えて、民の中から70人のリーダーを選ばせ、彼らにも民をまとめる仕事の責任を負わせます。
その上で、民の食べ物に対する不平に対して、肉を与えると答えるのです。
その時、モーセは男子だけで60万人もの人がいるのに、その人たちにたった一日、たった一度ではなく、ずっと肉を与えることができるのでしょうかと、不安と疑問を投げ掛けてしまうのです。
それに対して、主が23節で答えたのです。
「この主の手が短いというのか。」
手が短いとは、主に問題を解決することができない、その力がないと言う意味です。
主は、ここで否定的な表現を使うことで「主には可能である」と言う意味を強調しているのです。
主には不可能なことはないのです。
モーセはなぜ、ここで疑い不安になったのでしょうか。
60万の人に、毎朝マナを降らせて与えることができる主なのです。
それなのに同じ主が、肉を与えることはできないと、思ったのでしょうか。
これが私たちの主への信仰の限界でしょうか。
自分に理解できる範囲、自分の想像できることしか、信じることができないのであれば、見えないものをこそ信じる信仰とはいえないのです。
「目に見えないものを確信させる」と言う、ヘブル人12章1節のことばは確かなのです。
同時に、ヘブル人の手紙は「信仰は望んでいることを保証し」と、最初に言います。
私たちが、主に肉どころかどのようなものでも主は必要を満たしてくださると、望みを置くならば、それは実体となり保証されるのです。
私たちの主への期待は、小さ過ぎるのです。
ここで主はモーセに「わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」と、語ります。
そのことば通りに、うずらが飛んできて、不信仰な彼らの毎日の肉となりました。
主のことばは実現します。
主の恵みは大きい。
主の力はまさに全能なのです。不可能はない。
私たちは、間違った欲望を持つのに、正しい希望、期待を持たない傾向があるのではないか。
私たちは、もっと主に期待すべきであり、主に望みを置くべきなのです。
そして、主からの恵みの答えは、私の期待、想像よりもさらに大きいのです。
主に期待し信頼する一日としたい。
シャローム