「するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとって目なのですから。」民数記 10章31節 (2017新改訳)
モーセが妻ツィポラの兄弟であるホバブに、荒野の道案内を頼んでいる場面です。
ホバブは、初めしゅうとのレウエルと一緒に、自分たちの住んでいる地へ帰るつもりでした。
しかしモーセが道案内を頼み、引きとどめているのです。
エジプトを脱出し、荒野の旅も、主が導いてくださると言うのに、ホバブの力を頼みとするのは、不信仰なように思いますが、そうではありません。
続く32節ではモーセはホバブに対して、主が与えてくださる良いものを、分かち合うことができるのですから、一緒に居てくださいと、勧めるのです。
ここにモーセの信仰の姿を見ることができます。
一つ目は、主が導いてくださることに疑いなどありません。
しかし同時に、この地の地形や状況などに詳しいホバブの知識と経験を軽く見るのではなく、敬意を持って助けを求めることは正しい姿勢です。
主に頼ることと、自分ができること、自分で備えることができるものを整えて、大切な仕事に向かうことは正しいのです。
主に頼ることができるからと、無茶なことをするのは、正しくないのです。
モーセにはできないことをホバブにはできるのだと、謙遜な姿勢でいるので、モーセはこのように願うことができるのです。
二つ目に、モーセは主の祝福が素晴らしいものであり、それをホバブにも受け取って欲しい、一緒に経験して欲しいと勧めるのです。
これはこの先に、何が待っているか分からなくても、主の祝福と恵みは確かであると確信をしているのです。
ですからモーセは、隣人、この場合は家族でもあるホバブに勧めることができるのは、信仰の故です。
良いものを確信を持って勧めるのです。
一方で願いつつ、一方で勧め与えることができるのは、信仰に立っている証しです。
モーセが不信仰どころか、信仰に立って、ホバブに願いごとをし、同時に、ホバブに良いものを能えようと勧める場面なのです。
私たちも、隣人に対して謙遜に振る舞いつつ、主が与えてくださる良いものに関しては堂々と力強く勧めたいものです。
今日は、日曜日です。
礼拝の日です。一週間の中で、もっとも恵みの時です。この恵みも隣人に勧めて、一緒に味わっていきたいものです。
シャローム