「ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。」ヨブ記 7章11節 (2017新改訳)
7節からは、ヨブの嘆きです。エリファズへの返答がいつの間にか独白となり、神への嘆きとなっています。
その嘆きは、17節では、まるで皮肉を口にするような表現、訴えとなり。
最後の21〜22節では、まだ神の前ではなく、人の前における罪の認識と言う形で終わっています。
同時に、死を覚悟あるいは苦しみから逃れたいとの思いから死を望む思いもあるヨブです。
9節では、復活の信仰が垣間見られますが、確信がありません。
この7章は、ヨブの信仰が揺れ動いているのが、言葉に表れています。
全能の主、すべてを支配される主権者である神に委ねて従う信仰を現したかと、思えば、どうして苦しみがいつまでも取り去られないのかと、神に訴えます。
今朝、心に留まった11節はヨブの嘆きそのもの、心の奥底からの叫び、たましいの嘆きです。
苦しみの中で嘆きを訴える相手は主しかいません。
嘆きのことばを発して聞いていただく相手は主しかいません。
他の誰にも主に代わることができません。
嘆きの中での嘆きのことば。
嘆いても答えがあるとの確信もないほどの苦しみの中での嘆きです。
それでも嘆かずにはいられません。
私たちは苦しみの中で、神、主に嘆くことが許されています。導かれています。
答えや解決がないと、絶望していたとしても、主に嘆くのです。
それは泣き言言うのとは違います。
主は聞いておられる。
主に嘆きのことばをすべて注ぎ出します。
それは正しい嘆きです。
シャローム