「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちはキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」ガラテヤ人への手紙 2章16節

ガラテヤ地域、アンティオキアでは、ユダヤ主義を主張する者たちとの間で問題があったようです。
ユダヤ主義を訴える人たちは、異邦人が救われるためには、割礼を受けて形の上でもユダヤ人となって行くことを求め。
その上で、モーセの律法を守ることを要求していたのです。

しかし、パウロはここで福音の本質をもう一度ハッキリと示します。
それはただ1点です。
「ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」ということ。
罪が赦されて義とされるのは、この1点のみです。
「律法を行うことによってではなく」と、このことをパウロは強調します。
さらに教えます。
「肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです」

ユダヤ人はモーセを通して律法を受け取ってから、ずっと律法を守ることで義とされることはなかったのです。できなかったのです。
それなので、イエス様がご自分をいけにえとしてその命を献げて、罪を贖ってくださったのです。
私たちは、そのことを信じていくのみです。
律法を自分の力で行うことで、救いが完成されることはありません。
ただ、信じること。
もう一度、この恵を味わっていきましょう。

シャローム