「青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」 マルコの福音書 16章6節
16章の続きです。
お墓の中からイエスさまの亡骸がなくなっていて、そこに青年(御使い)が座っているのを見たマリアたちは驚きます。
マリアたちの驚きは当然だと思いますが、青年は驚くことはないと、語りかけます。
それはイエスさまが約束をされた通りに十字架で死に、その死を打ち破ってよみがえられるのは当然だから。
そしてお墓にイエスさまがいないのは、これもまた約束をされた通りに、よみがえられた後は、ガリラヤに行くことになっているから。
青年は、それが当たり前のことだと言いたいのです。
マリアたちが会いたいのは、間違いなく十字架につけられたあのイエスさまです。
そしてイエスさまは、死んで終わりではなく、よみがえられてマリアたちを待っているのです。
マリアと私たちは、間違った場所でイエスさまを探し、お会いしようとします。
しかしイエスさまは、そんな私たちを正しく導いてくださる。
私たちがお会いすべき方は、よみがえられたイエスさまです。
私の罪を赦すために、犠牲になって死んでくださいましたが、死を打ち破りよみがえられた贖い主なのです。
青年は驚くなと、言いますが驚いてしまいます。
しかしその驚きは、亡骸がなくなったと言う困り果てた驚きではないのです。
私のために身代わりで死んでよみがえられたのだという、感動と感謝の驚きです。
この驚きは、信仰にある驚きです。経験すべき驚きです。
シャローム