「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」コリント人への手紙 第2 1章3節

第2の手紙です。マケドニアで書かれました。第1の手紙の直ぐ後に書かれたと考えられます。
挨拶から始まる1章ですが、分かりにくい内容だと感じています。
比喩的な表現も幾つも有り、「はい、はい」は「いいえ、いいえ」17節、などの表現もまた、分かりにくくしていると感じます。

8〜10節が、具体的にどのような苦難、危険を指しているのかは分かりませんが、パウロが命の危険さえも感じたことを伝えてまで、コリントの教会の人に伝えたいことがあるのです。
そして、そこから救い出し、慰めてくださる父なる神様と主イエスにだけ、本当に信頼して歩むように教えるのです。
その背景には、コリントの教会で起きていた問題がまだ解決をしていないことがあるようです。

今、パウロは神に信頼し委ねることを教えるために、手紙の冒頭からかなり深いことを教えます。
1〜4節では、神について教え、5節で改めて神が与えてくださる慰めについて語ります。
その時、パウロは「父なる神」「父である神」という表現を繰り返して神について教えるのです。
この表現は、単なる名称ではなく、神様の本質と神様が私たちを慰めてくださる方であることを教えます。

神は、私たちにとって父であり、イエス様の父なる方であること。
すべてのものの父である方から慰めが与えられること、あわれみを注いで私たちを助けてくださる方だと、問題を抱えているコリントの教会の人々に教えます。
父という具体的な存在として神様を信じること。
この方がどのような時でも慰めてくださることを示します。
イエス様が人として生まれ、十字架に死に、よみがえられたのも、父のご計画と愛の故であること。
「私たちの主イエス・キリストの父である神」この一文には、私たちの信じる神様があやふやな存在ではなく、力や雰囲気といった存在でもないことを示します。

私に地上の父が与えられているように、私には、私たちの主イエス・キリストの父である神が与えられていて、この父からあわれみと慰めが注がれるのです。
苦難のとき、迷う時、私たちは父なる神に信頼して、賛美したい。
その時、既に慰めは届いていることに気がつけます。
命の危険から実際に救い出され、心に平安を受け取ったパウロからの力強い勧めです。

シャローム