「私は善を望んだのに、悪が来た。光を待ったのに、暗闇が来た。」ヨブ記30章26節
ヨブの絶望は続きます。
新約聖書、マタイの福音書7章11節では「〜天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と、イエス様は教えてくださいました。
これが父なる神様のご性質です。
ヨブもそのように知っていました。信じて歩んで来ました。
ところが今、苦しみの中から叫ぶヨブに対して、神様は全く反対のものを送って来られるのです。
癒しは与えられず、痛みが深まり。
慰めの代わりには、嘲りの声が投げられるのです。
かつてヨブを尊敬していた者たちの子どもさえもがヨブを嘲るようになったと、30章は訴えます。
ここには、それでもヨブの正しい神理解、信仰があります。
「来た」と、語ります。
全ては神様から来ること、神様の御手の中にあると、まだ信じています。
望んだら、すぐに与えられるとは思っていません。
光、すなわち助けは、待つ必要があることも知っています。
けれども、望んでも、待っても来ないのです。
代わりに、深い悲しみと嘲の声が来ます。
ここにヨブの絶望がまさに絶望となっていることが分かります。
このような絶望を経験した時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
祈ることしかできないのでしょうか。
祈って待っていれば良いのでしょうか。
解決は、この地上での生活の中で必ずあるとは限らないのも真実です。
けれどもそれを知っていることと、答えのない絶望の中に生きることとは別だと思うのは身勝手でしょうか。
「良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と、イエス様の言葉を信じ切る信仰を持ちたいと思う朝です。
シャローム