「争い合うこの二人の者は主の前に、その時の祭司たちとさばき人たちの前に立たなければならない。」申命記 19章17節 (2017新改訳)
イスラエルの国は、この時代の他のどんな国とも違っていることがありました。
それは王や他のいかなる職務、立場、地位の者であっても、人が国を治めて支配するのではないことです。
さばきつかさも、指導者たちも、主からその使命を受けて、権威を預かっているのです。
主が自身が、イスラエルの国と人々を治めているのです。
ですから犯罪を裁く場面でも、さばき人だけではなく、祭司が同席して、その職務、使命を果たします。
言い換えれば、宗教家が裁判の重要な職務を担うのです。
それは主ご自身がさばかれるのだということを、すべてのイスラエル人が自覚するためです。
そしてさばかれる人も、証言をする人も、主の前に立って、証言しなければなりません。
祭司はそのためにいます。目に見えるようにして、誠実で愛のある言葉を口にすることが大切だと、祭祀を見て、いつも思い起こすのです。
そこに主がおられるのです。
ここ17節からの箇所にある通り、もし、偽りの証言をした場合は、証人が罰を受け、死ななければなりません。
主の与えてくださった相続地で、咎のない者の血が流されてはならないし、主の前に偽りを語り、隣人を陥れるような者は、完全に取り除かれなければならないのです。
私たちは、願い事や助けて欲しいことがあると、主に祈り求めます。
では、私たちは、自分のこと、友人、隣人のことで口を開くとき、その言葉のすべてを主が聞いておられるのだと信じているでしょうか。
いつも、いかなる場面でも、主の前に立って歩み、主の前に発言しているでしょうか。
人のまで語る言葉は、主に賛美を歌うのと同じ心で口に上らせているでしょうか。
自分の心を見張り、自分の言葉を吟味し、賛美と並べて語れる言葉を自分の発言するべき言葉にしたいものです。
私は主の前に立ちます。
主は私を覆い守り導いてくださっているのです。
シャローム