「あなたが本当に、私たちを退け、 極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。」哀歌 5章22節 (2017新改訳)

聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、哀歌です。

哀歌はエルサレムの滅亡を嘆いた歌を集めたものです。
著者はエレミヤと言われています。エレミヤ書の9章1節「ああ〜昼も夜も、泣こうものを。」などに、エレミヤの嘆きが記されているからです。
しかし確定できる資料が他にあるのではありません。
ユダの地で、エルサレムの崩壊を嘆いた歌であることは確かです。

哀歌は、凝った技法が取られています。
1,2章は3行で1節を構成しています。
そして各節の冒頭の単語を取ると、ヘブル語(原典はヘブル語で)のアルファベット順です。
1章1節「ああ」1章22節「出される」この単語の頭文字がそれぞれアルファベットの準備並ぶのです。

3章は、3節づつが3つの塊となり、アルファベット順です。ですから66節あります。
4章は、各節は2行づつで、アルファベット順です。
5章には、アルファベット順の技法はありませんが、それでも22節に整えられています。

日本語で読む限りは、これらの技法はまったく分かりませんが、嘆きの歌にこれほどまでの技法を凝らして、主に嘆き訴えている詩人の強い思いは歌全体から読み取りたいものです。

現代の信仰者である私たちは地上の都であったエルサレムの崩壊を嘆くのではなく、自分の罪を嘆き、主の赦しと回復を求める声を上げるものでいたいのです。
哀歌の詩人もまた、嘆きと敵の罪に対するさばきを求めます。
同時に、自分たちの罪を深く顧みて、悔い改めて、主の赦しを求めるのです。
5章の最後は主のみもとに帰らせてください、私たちを本当に、退けないでくださいと、主のあわれみを切実に求めて終わります。

今朝、詩人は何故、こんな凝った技法にしたのか。技法を凝らしてまで嘆きを歌にしたのか?
ただ、普通に嘆きの歌を作れば充分ではないかと、そのことを考えてみました。

技法を凝らし、アルファベット順の単語を一つ一つ選ぶことをしながら、詩人はさらに深く自分と自分たちの罪を顧みる時間にしたのではないでしょうか。
そして深い悔い改めが、真の悔い改めとなり、その罪に沈む自分にまでなお、主のあわれみと救いの御手が伸されていることに気がつくことができたのではないでしょう。
私に語ってくださる神さまの前に、私が応えるべき言葉を深く思い巡らせて選ぶことは神さまの大きな愛に気がつくときとなるのだと、思う朝です。
シャローム