「私は、神の御手にあることをあなたがたに教え、全能者のもとにあるものを隠さない。」ヨブ記27章11節

ヨブが続けて主張します。
友人たちが主張することを認めれば、そのままヨブが隠れた罪をおこなってきたことを認めることになるので、ヨブは、友人たちの主張を認めないと。5節で語ります。
そして、13節から先の言葉は、友人たちがヨブを責める言葉を要約した内容になっています。
一言でいうならば、罪人が栄えることはないと言うものです。
因果応報と言ったことでしょう。
この友人の主張をヨブは認められないと、繰り返し強く訴えるのです。

ヨブは、今の自分の苦しみの状況は神の御手によるものだと知っています。
けれども、何故、苦しまなければならないのかが分からないのです。

ここ11節と、続く12節でヨブが友人に訴えるのは、ヨブがこれまで、罪を犯さず、正しく生きていきたことを友人として知っているはずだということ。
そのような生き方をしていてもなお、神はヨブを打たれることがある。
今の状況は、罪人の末路、罪の結果ではないということ。
しかし、神の御手の中にあることを知っています。

知っていても、受け入れることができて平安であるとは限らないのです。
ヨブは、全能者である神の御手にあることをずっと知っていたので、罪を犯すこともなかった。
それでも苦しみがあることを知って欲しいのです。

全能者の神の御手の中にあることは知っていても、苦しみの原因が分からないので、ヨブも友人も、どんどん神のみ心から離れた主張を語っていくのです。
全能者の神は、隠されることがある。そこにも意味があり恵みはあるのですが、それをそのまま受け入れて平安を持つことは難しいのです。

御手の中にあって、生かされていることを知り。
自分の身に起きるすべてのことの理由を知ることができないことを認めて受け入れること。
難しいことだと思い知らされるヨブの苦しい声です。

しかし、愛であり義である全能者の御手の中から、私は漏れ落ちることはないと、このことだけは握りしめて心に刻んでおきたいのです。
シャローム