「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指しして選び出したのだから。」 出エジプト記 33章17節
モーセの祈り、主に祈り求める姿に倣いたいと思います。
民が32章で金の子牛を造り偶像礼拝を始めてしまったことに対して、主のさばきがありました。
その上でなお、主がもはや民とはともにいないと言われていることに皆、嘆き悲しみます。
飾り物の金を用いて偶像を造ったので、人々は飾り物をその身から外すのです。
そのような状況で、主は、モーセに上れと命じますが、モーセは自分だけ、自分たちだけで上ることはできないと答えて、主のあわれみを繰り返して求めます。
主は14節で、最終的に約束の地における安息は与えられることを語ってくださいますが、今は、主はともに行くことはないと答えます。
それでもなお、モーセは諦めることはなく主に祈り求めます。
主がともにいてくださることを求めます。
このように繰り返して祈り求め、諦めないで何度も祈り求めるモーセの姿は、私たちが学び、見習うべき信仰の姿であり、祈り方です。
そして、最後に主はモーセの祈りに答えてくださいます。
アブラハムも創世記18章23〜33節で、ソドムの町滅ぼそうと語る主に、執拗にというほどに繰り返し必死に祈り求めています。
そして、主はその祈りに答えてくださっています。
主は、私たちにそのような祈りを望んでおられるのです。
主がともにいてくださることを、いつも最優先、最善、最良のこととして祈り求め続けること。
主がともにおられなければ、私たちは何者でもないことを知り、祈り求め続けること。
そのように祈りたい。祈り続けたい。
そして、主の心にかなう者へと近づいて行きたいと思う朝です。
シャローム