「すると主は、そいの民に下すと言ったわざわいを思い直された。」 出エジプト記 32章14節
モーセが主の山の上で主とお会いしている間,民は山のふもとで待つように命じられていました。
しかし民は、待つことができず、モーセの兄アロンに自分たちのために神の像を造るように願い,アロンは答えていきます。
主は、それをご覧になり怒りを燃やされます。
そして民にわざわいを下そうとされるのです。
その時,モーセは民のために取りなします。
主は,モーセの取りなしを受けて、14節のとおり、わざわいを思い直されます。
しかし、これは私たちが日々の中で「思い直す」のとは違います。
私たちは,最初の考えから途中で変更をしたり、取り止めたりすることがあり、それを思い直すことだと考えます。
しかし,主は全能で完全な義の方ですから、間違いを行ったりご自分の考えを変えたりはしません。
それでは完全と言うことになりません。
では、ここはどういうことでしょうか。
民、人とは罪を犯し,間違いを犯すものです。
主はそのことをご存じです。
しかし、その時、民のため、隣人のためにモーセのように取りなす人が立ち上がることを望まれます。
そしてその取りなしを待っています。
考えを変えるのではなく、取りなす者のために、わざわいをおこなうのではなく、あわれみを注ぐことを喜ばれるのです。
何故なら、主は義であると同時に愛の方だからです。
主の愛はすべての罪を覆い、わざわいではなくあわれみを、赦しを与えることを良しとされるのです。
主の思い直しとは、主のあわれみがどこまでも深く大きいことを示すのです。
シャローム