「人は神の役に立てるだろうか。 賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。」ヨブ記 22章2節 (2017新改訳)
エリファズは、どうしてもヨブを罪に定めて、悔い改めを迫らずにはいられないようです。
21節の「さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ」との勧め、迫りは正しいのです。
正しく、良い勧めの言葉です。
ただし、この時のヨブに対して掛けるべき言葉ではありません。
ヨブは確かに今、酷い苦しみの中にいます。
しかし今、ヨブは罪のさばきの中にいるのではありません。
悔い改めを迫る言葉ではなく、信仰が無くならないようにと、励ます言葉が必要なのです。
寄り添う、信仰の友人が必要なのです。
なによりもエリファズは、神さまのことを間違った理解をしています。
ここ2節エリファズが語る言葉は、神を知らない人の言葉です。
神は全能の方です。有って有るという存在の方です。
人の手助けが必要なのではありません。欠けているところを人が補うのでもありません。
神は私たち人と、人格ある交わりを求めてくださるのです。
神は愛する存在として、私たちを創造してくださった。
役に立つか立たないかではありません。
価値がある者と言ってくださるのです。
人が神を愛し、神のことばに従って平安と喜びの生き方をする時、神はそのことを喜んでくださるのです。
役に立つ以上に、価値ある愛する存在なのです。
しかし、神はそんな存在のヨブを今、試練に遭わせておられる。
そこに人であるヨブの苦しみと嘆きがあるのです。
エリファズは、神を愛する存在として知り、その上で、ヨブの苦しみの原因を探るのではなく、共に苦しみを分かち合う友人になるべきでした。
人は紙の役に立てるだろうか。
立てない。けれども愛する存在になれる。
シャローム