「すると彼らもまたも叫んだ。「十字架につけろ。」」 マルコの福音書 15章13節

15章です。

10節にはピラトが祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたとあります。
14節では、どんな悪いことをしたのかと、彼らに問いかけています。
裁判官の役目をしているピラトも、祭司長たちも、集まっていた群衆も、みんな一つのことを知っていました。
イエスは無実であることを知っています。
しかし誰もイエスが無実だと証言しません。
祭りの日の恩赦でイエスを釈放して欲しいと願い出ません。
ピラトも権限を持っているのに、イエスを釈放するとは自分から言いません。

それどころか、無実の人を十字架につけろと叫ぶのです。
繰り返し叫ぶのです。
それぞれの人たちが、イエスが自分の思い通りにならないので排除したいのです。
ねたみの心も含めて、みんな自己中心の心で叫ぶだけなのです。
正しいことをすることがなく、愛といつくしみを持って行動しません。
それが罪人なのでしょう。

自分の思い通りにならない時に、人の罪の心は恐ろしいことをします。歯止めは効きません。
十字架につかなければならないのは自分であることを誰も知りません。認めません。
こうして叫んだ人が、イエスさまの命の身代わりの犠牲によって救われるべき人なのです。
そして私たちもまた、この人たちの共犯者であることを認めなければならないのです。
私が「十字架につけろ」と、叫ぶような日が来ないように、イエスさまに祈るばかりです。
シャローム