「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。」民数記 20章11節 (2017新改訳)
20章は、モーセの姉ミリアムが死に、兄アロンが死にます。
そして民は変わらず呟き、主の前に罪を犯すのです。
5節では「いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない」と、文句を言っています。
ところが同じ民が、約束のカナンの地にには、それらの果物も豊かであるのに、そこに住む民が強いからと言って、主に逆らうのです。
私たちはいったいどれほど罪深い者なのだろうと、恐ろしくなる民の姿があります。
それは私の姿でもあります。
モーセはここで、呟く民のために岩を打ち、水を湧き出させます。
しかし主は、モーセを叱責しました。
主は、岩を一度だけ打てばよいのに、モーセが二度も打ったことを指摘するのです。
こんな不信仰で繰り返して主に逆らい、自分に文句ばかりを告げる民のために、労しなければならないのかという思いが湧き上がり、振り上げた杖を、二度打ってしまったのでしょう。
しかしその思いも、岩を打つのではなく、民にぶつけるのではなく、主に祈れたら、よかったのです。
彼が、主に信頼するよりも、民への怒りに身を任せて岩を二度打ったことを指摘するのです。
余分な行動は、主への信頼を台無しにします。
しかし私たちは弱い。
これくらいのことは、日々やってしまいそうです。
そうしたら、もう私たちは信仰者として立ち行かないのでしょうか。そんなことはありません。
モーセは、信仰者の代表なのです。ですから主は、目指すべき姿をモーセを通して示されます。
それは主の、モーセへの期待であり愛情です。
目指すべき信仰者の姿があります。
ここでならば、それはどこまでも主にだけ信頼し、感情に流されないで、岩を打つこと。
しかしそれができない私であることを知り、受け止めることの方が大切かも知れません。
まだまだなのです。モーセはもちろん、私などもっと足りません。
「未完成の完成」
私の信仰の姿は、これに尽きる気がします。
主は、未完成の私を見捨てないで、忍耐強く導いて愛してくださる。
シャローム