「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネの福音書 8章32節

律法を本当に守ろうとするならば、その人は律法を与えてくださった神様を愛していくはずです。
しかし、当時の律法学者やパリサイ人は、律法の文言に詳しいだけで、その本質に従うことがありません。
神様を愛していないのです。
8章の最初のことばは、イエス様がオリーブ山に行かれたとひと言記します。
オリーブ山に行ったとは、そこでイエス様が祈ったことを教えています。自分のためではなく人々のために祈り、父なる神様と静かに深く交わりを持ったのです。

イエス様が山で一人祈っている間、パリサイ人たちは、イエス様を陥れるために悪巧みをしていたのです。
神様を愛することもなく、祈ることもしないで「悪しき者のはかりごと〜嘲る者の座(詩篇1篇)」についていたのです。
そんな人たちが真理を知り、義とされることはありません。
この人たちは、自分で気がつかないだけで罪の奴隷となっています。悪しきことの囚われ人になっているのです。
自由にしますとは、これまでは罪の奴隷であったということです。

彼らが悪しき合議をしている時間を神に祈っていたならば、彼らもまた詩篇の詩人のようになれたでしょう。
神を求めて律法を読み、神のことばに聞き従おうとする人は、神を愛するようになり、真理に近づくのです。
立派な人になるのではなく、神に愛され神を愛する人になります。
そして祈りの人となり、喜びに満たされるのです。

シャローム