「木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し その若枝は絶えることがない。」ヨブ記 14章7節 (2017新改訳)

ヨブは絶望しているようです。
子どもたちが死に、資産ももなくなり、自分の身体は酷い病になりました。
それでも妻には、主への信仰を証ししていました。
恵みも、良いものも悪いものも主から与えられて受け取るのだと告白したのです。
それが友人たちに、教理や行ないと言ったことで責め立てられて罪に定められる内に絶望してしまったようです。

4節では、人は皆が罪人であり、罪人からはなんの良いものも生れないと、絶望します。
そしてそんな罪人を義なる神さまはさばきの座に連れて行って罪に定めるのだと、絶望します。

ヨブは、ここ7節からは自然に目を移して、比喩的に自分の悲しみを語ります。
木は、死んだようでもまた芽を出すことができるし、常に若々しい枝が伸びてきます。
ところが死んでしまった人は何処へ行くというのでしょうか。
ヨブは人の死は空しいと感じ始めているようです。
復活の信仰は、ここには見られません。

神の目が罪人をいつも捕えて話さないと、絶望しています。
人には痛みや絶望しかないと、訴えています。
1章、2章のヨブはもう見られません。
友人たちに揃って責め立てられたことが、ヨブをさらに苦しめたのです。
友人たちにこそ罪があります。

しかし、ヨブは本当に弱っています。木と人の死を同列に考えるのは正しくありません。
人の地上の人生の最後と、木が枯れていくのは別のものです。
神さまは、人には良いものを与えてくださるのです。最後まで。
地上の人生が終わる最後まで御手に委ね切り、御国に生きることができることを確信し期待する信仰を持ちたいものです。
シャローム