おはようございます。
明日、13日の月曜日は朝一の新幹線で教団の奉仕(二日間)で出かけますので、13,日14日の分も、今日の分の続きに書きます。
よろしくお願いします。 榊原

12日(日)
「彼が死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。」民数記 16章48節 (2017新改訳)

民の一人であるコラを中心にして、モーセに立ち向かう者たちが現れました。
モーセやアロンの働きと地位をうらやみ嫉んだのです。
モーセは謙遜であり決して民より自分を上の地位に置いたりしませんでしたし、誇ったりもしなかったのです。
しかし人をうらやむ者というのは、そういう考えをするものです。
また、それに賛同する人もたくさんいました。
身勝手な批判をし、主のことばに従わない人たちは、この後、主のさばきを受けることになります。
コラは地に飲み込まれ、他の人も焼かれて罰を受けるのです。
このときのさばきが、主の厳しいさばきである証拠に、誰か民の中から主に命じられて剣を持ってさばきをおこなうのではなく、主の火が焼き尽くすことからも分かります。

モーセはひれ伏します。
しかしモーセは、自分を批判した者たちがさばきを受けることを喜んだりしません。
モーセはアロンに命じて、宥めの香をたくのです。
アロンが彼らの間に立ったとき、主の罰は終わるのです。

私たちは人がその人の罪の結果とは言え、さばかれることを喜んで眺めたり、傍観していてはいけないのです。
主の愛と赦しを知っており、体験している者として、罪人と義の神の間に立って、執り成す者となっていくのです。
私たちが義の神が同時に愛とあわれみ深い神と信じて、執り成すときに、主の愛の業は具体的に罪人の間に実現していくのです。

傍観者ではなく、執り成す人に。
シャローム
続けます・・・・

13日(月)
「その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためにアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。」民数記 17章8節 (2017新改訳)

罰はやみました。しかし人々の不平と不満、不安を取り除くために、主は働いてくださる。
主は、12部族の族長が持つそれぞれの杖を、天幕のあかしの箱の前に置くように命じたのです。
翌日、8節にあるように、アロンの杖にだけ、特別なことが起きました。

切り取られ、杖として使われている枝から「つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた」のです。
信だ枝を主は生かすことができるのです。
しかもアーモンドの木は、自然界にあって、同時に芽を出し、花を咲かせて、身を実らせることはありません。
主の全能の力を示します。
その主が、アロンを選ばれていることを示すのです。

私たちには、主のご計画やその力は分からないことがあります。
芽、つぼみ、花、果実が同時に存在することなど、私たちの知識と力では考えられません。しかし主には可能です。
私たちは、この方が語られたことばと、この方が遣わすところで、誠実に仕える時に、想像を超えた恵みの結実を見るのだということです。
それは明日なのかも知れません。
期待しよう、主は私を生かしてくださる方。
シャローム
続けます・・・・

14日(火)
「それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」民数記 18章19節後半 (2017新改訳)

17章では、主に逆らったレビの部族ですが、主はレビ人を会見の奉仕をする者として選び分かちました。
そして主は、他の部族が献げた物から、レビ人は受け取り食べることができると、約束をくださるのです。
ここから、主に直接仕える者は、献げ物から受け取ることが示されたのです。

ここでは「塩の契約」だと、言われます。
塩は、腐敗を防ぐものとして用いられ、きよさを示すものでもあります。
主がレビ人に与えてくださった契約が、きよいものであり、決して腐らず、変わることがない恵みの契約であることを示しています。
そして続く、20節では「決して相続地を持ってはならない」と、厳命されます。
主が与えて養い、きよく保ってくださるのです。
他に部族と比較してうらやみ、また、自分の力で恵みを増やそうと、相続地を持ったりするなとの、命令です。
主にだけ期待せよとのことばなのです。

お料理の味を引き締める塩でもあります。
ピリッと、主のことばを引き締め、きよめて聞き、従うのです。
そのとき、主から与えられる恵みは、大きく深く、永遠に失われることがないのだという、ことばです。
子孫にまで遠く及ぶ、塩の契約を喜び、他のものに心を奪われないようにして、主の約束だけを信じ、期待して待つ者でいたい。
シャローム