「それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」」ヨハネの福音書 7章49節
祭司長とパリサイ人は、当時の多くのユダヤ人とは違って、律法の専門家から学びました。
先生と呼ぶ律法の専門家から直接学ぶのです。そしてそれが彼らの誇りとなっています。
一般の町の人たちよりも自分たちは優れていて律法を知っていると、自負するのです。
そして町の人々は、もちろんモーセの律法について、子どもの頃から学びますが、それは言ってしまえば一般教養なのです。
それに対して、祭司長とパリサイ人は、専門課程を学んで修めた人です。
だから、自分の方が立派で、神様に救われる価値があると自負しています。
けれども、律法を知ることは神を知り神を愛することであるのに、彼らはそれをしていません。
それなのに、多くの人々を律法を知らないのろわれて人だと見下すのです。
しかし、そうではありません。
神を愛することを知らない人は、隣人をも愛しません。そしてこの人たちこそが、のろわれているのです。
それ以前に、人を呪われているとさばくことで、自分にのろいを招いています。
彼らはそれを知らないのです。
律法を知ることとは、律法に記されていることを愛することです。
そして神を愛することです。
神を愛する人は隣人を愛します。
その人は幸いな人です。
シャローム