「「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」」ヨハネの福音書 6章9節
五千人の群衆が、イエス様が与えた食事で満たされたしるしの場面です。
そこは町から遠く、その場には五つのパンと二匹の魚しかありません。
イエス様に問われたピリポが「足りません」7節と答え、続けて今度はアンデレが「何になるでしょう」と言ったのです。
彼らは自分たちの持つ物では足りないことを答え、自分たちには手段がないことを答えています。
イエス様の問い掛けの真意を理科していない答えです。
しかし、同時に私たちの本質がそこにあります。
私たちが神様を離れては足りないのです。そしてどうしようもない、何にもならないのです。
もし、そこにパンが五千個以上あったとしても、群衆は満たされないのです。
人が準備できるものには限界があり、神様を離れたところでの準備は必要を満たすことにはならないのです。
35節でイエス様が答えられるように、イエス様を信じて受け取って行かない限り、私たちは満たされることはできず、渇きを潤すこともできません。
満腹してもまた飢えて、飲んでもまた渇くのです。
人は真の神様を信じて繋がっていない限り、満たされることも渇きをなくすこともできないのです。
シャローム