「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。」コリント人への手紙 第1 16章22節
 
 手紙の終わりの挨拶とも呼べる言葉が続きますが、驚く言葉も記されます。
 パウロが愛する同労者であるアキラとプリスカ夫婦の名前も上げて愛のある言葉を書き送ったかと思ったら、いきなり「のろわれよ」と書くのです。
 初代教会の時代と現代、ユダヤ、地中海地域と日本という分化の違いもあると感じます。
 「のろわれよ」とは、言えないと感じます。
 
 けれども、パウロは誰かをのろって罰を与えたいと考えているのではないのです。
 「主を愛さない者はみな、のろわれよ。」という1文は定型文ですから、のろう、ということに強調点がある文章ではないでしょう。
 必死の祈りとともに、主を愛さない生き方をしないで欲しいとの、パウロの思いが手紙の最後にも書かずにはいられないいのです。
 
 なによりもパウロは「主よ、来てください。」と、毎日を必死に希望と期待を持って宣教の働きをしています。
 また、教会の交わりを大切にしていたのです。
 
 パウロは、明日にも主イエスが再びこの地上に来てくださることを信じて、働き、交わりを大切にし、主イエスと教会の兄弟姉妹を愛する生き方をしているのです。
 
 主イエスを愛する人は、主イエスがもう一度、来てくださることを信じ期待しているのです。
 私たちは「主よ、来てください。」と、祈っているでしょうか。
 祈らなければいけないと思うのです。
 主を愛する者であるならば祈りましょう。
 
 礼拝の日曜日です。主を見上げ、賛美し、祈りましょう。
 シャローム