「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対して膝をかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイは膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」エステル記 3章2節 (2017新改訳)
聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、エステル記です。
前587年にエルサレムはバビロンに滅ぼされて、たくさんの人々は捕囚の民として連れて行かれました。
その後、バビロンはペルシャ帝国に滅ぼされることになります。
人の世は移り、力を誇る王も倒されて、代わっていくのです。
エステル記は、そのペルシャの王クセルクセスの時代に、その地に移されて既に長い期間を生活していたユダヤ人の中に起きた出来事を記します。
養父モルデカイと娘となっていたエステルが主人公です。
ペルシャ帝国の中で広い地域に分かれ住み生活をしていたユダヤ人です。
彼らは、主なる信の神だけを信じて生活をしてますが、本書には「主」「神」と言う表現は登場しません。
同じように女性の名前が書名になっている「ルツ記」が「主が、その翼の下に身を裂けようと」などの表現があるのとは対照的です。
しかし主だけを信じ、従って歩む姿は共通しています。
そしてエステル記は、周りに住む人々が主なる神様を信じていない時も、信仰者はどのように歩み、生きるべきなのかを教えてくれる書です。
ここにハマンと言う人物が登場します。
ペルシャ王に上手く取り入り、自分の権力を強めて、人々に自分をあがめさせようとする人です。
多くの人々は、このハマンを恐れて、彼に膝をかがめてひれ伏すのです。
しかし主だけを信じるモルデカイは、ひれ伏しません。
あがめるのはまことの神だけだからです。
この後、ハマンは怒り狂い、モルデカイだけでなく、すべてのユダヤ人を根絶やしにしようと企むのです。
モルデカイが、形だけでも膝をかがめておけばハマンに憎まれなくても良いのにと、いう意見があるかも知れません。
適当にハマンに話を合わせておけば、危険な目に遭わなくても済んだはずではとの、意見も出てくるかも知れません。
しかし、それこそが主だけを信じて生きることに背くことになります。
妥協の一歩が、後になって、もっと恐ろしい危機を招くのです。
ハマンの悪巧みは、結局、祈りに祈ったモルデカイとエステルの祈りと、命がけの信仰によって打ち破られます。
その具体的な方法は、ハマンに憎まれる前からの、モルデカイの真摯な王への臣下としての行動などによります。
信仰者は危機になってだけ、慌てるのではなく、日々、主に信頼して生きる時に、危機に際しても助けがあることを確信できるのです。
信仰者の私と、社会人の私、家庭の私が常に一致し、主を愛して生きることが大切です。
主イエスと言う言葉を、いつも口にしていなくても、主イエスを証しする生き方ができます。
その生き方の一つをモルデカイに学ぶことができます。
膝をかがめ信じて祈る神、主を知っていることは既に幸いなことだと思う朝です。
シャローム