「終わりが来る。終わりが来る。 あなたのために機が熟した。見よ、それは来る。」エゼキエル書 7章6節

「機が熟した」の箇所は、以前は「起こしに来る」と翻訳していました。
民が罪を重ねているのに一向に気がつかないので、ついに主が彼らを目覚めさせ、罪を意識させるのです。
ここでは、果実が実る時が来たように、自分自身の罪の果実が熟して、ついに、主の憤りが彼らの身に降り注ぐ時が来たということを示します。

「終わりが来る」と二度繰り返されて強調されます。
主が彼らを、あわれまず、惜しまなくなり、ついに主の憤りさばきが注がれるという日です。
彼らの平和だと思っている偽物の日常に終わりが来ます。
主が裁かれるからです。
そして、彼らが偶像礼をする日々に終わりが来ます。
ようやく彼らが目覚め、機が熟したので、誰が神であるのかを知る時が来たからです。

よく見て、よく聞くのです。
神の憤りが注ぐ日は、さばきの日であり、神、主に立ち返ることができる恵みの日でもあるのです。

神はここ7章で、あわれまない、惜しまないと語られますが、さばきを下さことで、あわれみと惜しまれていることを、もう一度明らかにしてくださったのだと思います。
主を知ることがすべての恵みの始まりです。

シャローム