「聖所から出て行って神の聖所を冒してはならない。神の注ぎの油による記章を身に着けているからえある。わたしは主である。」レビ記 21章12節 (2017新改訳)

祭司と大祭司が聖でなければならないこと、それも徹底的に聖でなければならないことが、命じられている21章です。
結婚においても、頭の毛や髭を剃ってはならないことについても、厳しく命じられます。
家族と死別したときにも、優先されるべきは祭司の職務と生活であることまで命じられます。
ここには、身に欠陥のある者は祭司の職には就けないことまで記されますから、現代に生きる私たちには、差別があるように思えるかも知れません。
しかしそのことばの中には、足や手の折れた者はなれないと言う項目もありますから、怪我による骨折も同じよう扱われているようです。
その意味は、祭司が、その身を完全なまでに整えていなければならないことを示すのでしょう。
いけにえの羊も、怪我があるものは用いてはいけないのと同じ意味ではないでしょうか。
私たちには、それは無理なことです。
それほどまでに主という方の聖さは徹底的のものであることを教える定めなのでしょう。

ここ12節では、聖所での職務がなによりも優先されることが示されます。
10節には「髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない」と、命じています。
これは、悲しみを表す当時の表現方法です。
装束を身に着け、祭司の職に一度就いたのならば、どのような悲しいことが起きても、冷静に平安に祭司として振る舞い、職を全うすることを命じるのです。

ひげそり、結婚関係、結婚の相手、親族の死、身体のことについても徹底的に聖であるように、命じられるのは、祭司として召されているから。
そして召した方が、聖であるから。
ここにある命令をすべて、生涯にわたって守ることができる人はいないでしょう。
できないこと。しかしそれを守るために力と心を尽くすこと。
そして聖なる神の前に行くことが許されている特別であることを覚えるための定めなのだと受け取りました。

今、私たちは完全ないけにえ落としてご自身を捧げ、犠牲となってくださったイエスを信じるだけで、これらの定めのすべてを越えて聖であるとしていただけるのです。
それは聖である主イエスが、罪人の私の身代わりとなってくださったから、その理由は私を愛してくださったからです。
それならば、ここの命令も愛する者への大きく深い愛が、厳しく高い定めとして示されているのだと知ることができます。
守れないことを知ることも大事なことであり。
それでもなお、主のことばに従うことを選ぶことが、主への正しい応答だと思います。

ここには文字にだけ表された定めを読むと、理解できない、受け入れられないことが多く記されているのは確かだと思います。
背後にはいつも主の愛が私に注がれている上での定めだということを知っておきたい。
シャローム