「そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。」 士師記 19章23節
士師記に登場するさばきつかさの活躍を記すのは、18章で終わっています。
19章と続く内容の20章は、読んでいて心が少しも晴れません。嫌になってしまう内容が続きます。
ここを読むと、結局士師の時代はイスラエルの人々が主から離れて好き勝手に歩み、神なく、信仰なく、愛もない時代を過ごしたのだと思います。
主が、何度もあわれんで士師を召して遣わしてくださったのに、彼らは悔い改めることはなく、その生活はひどいものであることが露呈したのが本書、士師記です。
ここでは、旅人である同じイスラエルの部族の人を男色の思いで見て、罪を犯そうとする人々がいます。
その旅人を守ろうとする家の主人も、助ける方法が間違っています。また、旅人も自分の側女を差し出して助かろうとするなど、誰一人として正しいことをしようとしていません。
家の主人の言葉である「どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。」が、本当に大切なことなのです。
けれども、旅人を助けるために、家の主人も自分の娘を犠牲に差し出すとしますから、そこには主への信仰が見られません。残念な行動です。
ここは本当に全てのことが気分が悪くなる、嫌なことの連続です。
でも、それこそがこの時代の人の姿です。
よく見て、よく聞いておかなければならないのです。
それでも、主は、そんなイスラエルの子らを見捨てず、私たちを見離さず、幾度でも救いの御手を差し伸べて助け導いてくださる方なのだということが分かるのです。
士師の時代は、主のあわれみの深さを知り、同時に、私たちが罪を繰り返してしまうという罪深さを思い知る時です。
それは今も変わっていないと感じます。
ですから罪を認めて、主を見上げたい。見失わないようにしたい。
シャローム