「自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」 マルコの福音書 8章37節
8章の続きです。
35節から続く「いのち」とは、この地上で生きている「命」と言うことに留まりません。
80年、100年と言う地上での生活を終えたら、人は死んで何も無くなってしまうのではないことをイエスさまは教えてくれます。
神とともに生きるいのちなのか、永遠の滅びの中に入るのかどちらかです。
死んでしまった後で、そのいのちを買い戻すことはできません。
ここで何を差し出せばよいのでしょうかと,問うのは尋ねているのではなく,何を差し出しても買い戻すことはできないことを強調している表現なのです。
いのちを失ってしまったら,もう,買い戻すことはできません。
この地上での生活が許されている中で、永遠のいのちを得る約束を神さまからいただくのです。
さらに、もう一つの面があります。
私が「永遠のいのち」の対価として差し出せるものは持っていないと言うことです。
ですからこの地上での生活で、いのちを得るためには、それを恵みとして受け取ることが必要です。
対価として差し出せるものはありませんから、一方的に受け取るのです。
それは今,生きているこの時に受け取らなければなりません。
また、対価を持たない私に与えられる大きな恵みであることを知る必要もあるのです。
この恵みを差し出してくださっているイエスさまの前に,どうすべきなのかだけが問われます。
差し出すものなど何もありませんが、感謝してただ受け取ります。
シャローム