「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行う、これをあなた方に与えた。いのちをとして宥めを行うのは血である。」レビ記 17章11節 (2017新改訳)
イスラエル人は、いかなる食用の動物であっても、その血を飲むこと食用とすることは厳しく禁じられています。
それは贖い、宥めとして血が用いられること。
血は祭壇で用いられるという、決して変えない律法があるからです。
イスラエルの民は、いけにえの血を見るとき、それが注がれるときには、そこにいのちがあることを覚えます。
そしてイスラエルの全能の神は、他の国々の神々のように幼児などのいけにえを屠ること、献げることを禁じ、憎まれます。
それゆえ、ただお一人、罪のない御子であるイエス・キリストが、十字架の上でただ一度、血を流されることの意味が分かるのです。
主は、民に献げるべきいけにえの動物さえも与えてくださった。
民の贖いのために与えてくださってきたのです。
そして、その究極は御子をいけにえとして、与えてくださったという事実です。
主なる神様は、私たちを愛し、私たちのために、すべてのものを備え、与えてくださるのです。
私たちは、そのことを素直に信じて、受け取るのかどうかが問われています。
「実に、肉のいのちは血の中にある。」
このことばに倣うなら「実に、私のいのちは、イエスの流された血の中にこそある。他にはない。」
この恵みを、信じられること、受け取れることを喜びたい朝です。
シャローム