「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。」民数記 6章5節 (2017新改訳)
ナジル人とは、部族、氏族名ではなく、特別な奉仕のために分けられた人を指しています。
そのナジル人の誓願を立てる時の特別な方法について命じられます。
まず初めにぶどう酒を飲んではいけないことが示された後、頭にかみそりを当ててはならないと命じられます。
かみそりを当てるな、髪の毛を伸ばしておけと、二重に命じられるほどの、厳しい規定です。
髪の毛に何か特別な力があるのではありません。
聖書は、魔術的な力や何処からか不思議な力を受け取って何かことを成し遂げると言うことを否定していますし、そう言うことを求めることを禁じます。
それでもこの不思議な髪の毛についての規定を守ることは大切です。
一方で、主は子どもをいけにえに捧げることや、自分の身体を傷つけて神に願い事をすることを、厳しく禁じます。
その点からも、髪の毛を剃るな、切るな、伸せと言うのは、主のことばとして一貫しているのです。
主は、私たちの身体も大切に価値あるものとして見てくださっているのです。
髪の毛で思い起こす事件があります。
士師記では、さばきつかさのひとり怪力を誇ったサムソンが髪の毛を剃り落とされて力を失う様子が記されます。(士師記16:17〜19)
サムソンがナジル人でありながら、主の命令を軽く考えていた様子は士師記に詳しく記されます。
そしてサムソンは、敵に髪の毛を剃り落とされて力を失います。
大切な祈りの時は、相手の頭に手を置いて祈ります。
王に任命する時などは、頭から油を注ぎます。
頭は大切な場所であり、その人を代表して象徴的に扱われるのです。
そこにかみそりを当てないこと、髪の毛を剃らないことは、主にどこまでも従順に従い通すことを示すのです。
髪の毛そのものには意味はなくても、髪の毛を剃らないことには意味があるのです。
髪の毛を伸ばし続けることは、主のことばに従い続けることを象徴的に示しているとも言えるでしょう。
主は、ここで明確に髪の毛について命じました。
主のことばに信頼して従うのです。
現代に生きる私たちは、どうしましょうか。
主イエスの名前で祈るように、イエス様ご自身に命じられています。
信じる者が二人以上心を合わせて祈ることも勧められています。
主イエスの名前を通して、信じて祈っていくこと、祈りの友と心を合わせて祈ることが、現在の私の誓願の祈りになるのです。
シャローム