「実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。」エステル記 10章3節 (2017新改訳)
わずか3節だけの10章、エステル記の最後の部分です。
女性の名前であるエステルの名が付けられた書であり、異郷の地に住んで、その国の王妃にまでなったエステルの活躍とその信仰を記す本書です。
しかし、その書を閉じるときに、示すのはエステルのことではなく、その養父であるモルデカイのことです。
最初にモルデカイが、クセルクセス王に次ぐ地位にあったことを記します。
多くの人が、聖書の神を信じてはいない異教の国、エルサレムから遥か遠くの国に生きて、その国で王に次ぐ位となり活躍をしたことを示します。
これは当時の情勢から考えると、特別なことです。
捕囚の民、即ちバビロン帝国にに滅ぼされたのだとはいえ、ペルシア帝国の人間ではないモルデカイが、王に信頼されて王様の歴代誌に正式に記録されるほど信頼されたのです。
そして聖書は、その理由を記します。
軍事で或いは、経済や土木などで業績を上げたとか、記すのではないのです。
民の幸福を求め、平和を語ったと言うことです。
もちろん、ユダヤ人の幸福を求めることがペルシア人の幸福を求めなかったと言うことではないのです。
民の幸福を求め、平和を語る。それは両国民に対してでしょう。
そして求めて、語ったというのは、そのためにできるすべての行動を取ったと言うことでしょう。
それは王の暗殺計画を阻止したことなどに明らかです。
自分の利益を求めるのではなく。
自分のために隣人を敵としていくのではなく。
民、即ち隣人をも含めた人々の幸福を求め、平和を語って行動する。
その人は、主に祝福されて守られるのだと言うことです。
そしてその人は、異教の人々にも尊敬されるのです。
モルデカイが、祈り求めたものと、そのための行動は、異教の神々を信じる人々が多い国で生きるキリスト者の指針になります。
いずれにしても、私たちは隣人の幸福を求め、平和を語り実践する生き方を求めて歩むべきなのだと教えられる本書の最後の言葉です。
シャローム