「「イスラエルの子らのすべての長子の代わりにレビ人を、また彼らの家畜の代わりにレビ人の家畜を取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である。」民数記 3章45節 (2017新改訳)
ここには、私たちがこれまで当たり前だと考えてきた価値観を反転させることが示されています。
そしてそのことをとても強く訴えています。
この節の最後のことばである「わたしは主である」とは、主の命じたことばを強調する意味があります。
主が、命じるのですから、主が、語るのだから、その内容は絶対なのだと、聞くべきことばであり、従うべき絶対の言葉だと、念を押す表現です。
そしてそのことばに従うときに、私たちは恵みを受け取り、幸いに生きるのです。
その内容は「レビ人はわたしのものである」と言うこと。
現代の教会の実体に合わせるならば「キリスト者はわたしのもの。」「わたしのものでなければならない。わたしは主である。」と、なります。
主のものであるとは、どういうことでしょうか。
主のために生きると言うこと。
私の人生は私のものであり、私は私のために生きる。
それが自由ということであり、幸いだと、思っていた。
しかしそうではなく、私の幸いと私の自由は、主のために生きるときに実現し、満たされるのです。
自分のために生きるのではなく、主のために生きると言う、価値観の変更、転換がここには示されます。
自分のために生きる私ではなく。
主のために生きる私。
その生き方が、幸いで、価値があり、自由なのです。
私は主のものであり、主は私の神。
それを知っていて、実行できる幸い。
ここにそれが教えられ、命じられています。
シャローム