「翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。」 マルコの福音書 11章12節

11章の続きです。

エルサレムの町の中で神の国のお話をされたり活動をしていたイエスさまは近くのベタニアに泊まっていました。
夕方にはベタニアに帰られて、翌日にはまたエルサレムに入られる。そうして十字架へと向って行かれるイエスさまの姿がここにあります。
そしてこの時、イエスさまは「空腹を覚えられた」のだと、聖書は示します。
イエスさまは、聖霊によってみごもったマリアから生まれて、罪を持って地上に生まれることはありませんでした。
また、その生涯において、罪を犯されることはありませんでした。
ですから、十字架の身代わりの死、罪を赦す業を完成させてくださったのです。

しかし、同時にイエスさまは完全な人でした。
神である方が、私たち人と完全に同じになられたと、聖書は教えてくれています。
神のような力を持った人ではなく、人のような姿を神が取った、或いは、そのように見えたというのでもありません。
完全な人であり、完全な神です。

その方が、私たちと同じになられたということは、私たちと同じ弱さを持たれ、その弱さを経験してくださったのです。
それなので、イエスさまは私たちとともに歩んでくださり、私たちの弱さを知ってあわれみ助けてくださる方なのです。
ここでは、ごくごく小さなことであり、私たちには自然なことである空腹を神であるイエスさまが経験してくださっていることを教えてくれます。

イエスさまが、私たちの弱さを知っていてくださるということは、文字で記しているだけのことではなく。
このように実際に弱さを経験してくださっていたのだと、私たちと同じであることを知ることができる箇所です。

全能の方が、その全能の力ではなく、空腹さえも覚えられる姿、生き方を取ってまで、私を愛してくださったのだと知ることができます。
イエスさまは本当に私を愛してくださった。私と共に歩んでくださっているのです。

私が空腹を覚える時は、私の弱さを知ることができる時であり、自分を知る時であり、イエスさまの愛を知る時なのです。
シャローム