「人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。」エゼキエル書 15章2節

「どれだけすぐれているのか」とは、まったく有益ではない、有能ではないという意味を強調している表現です。
役に立たないのだと示すのです。
この場合のぶどうの木は、野生のぶどうの木のことです。
主人が大切に畑に植えて愛情を注いで育てたぶどうの木ではないのです。
正確に言えば、主人に大切にされてきたのに、その主人を裏切り、生来のぶどう、野生のぶどうに戻ってしまった木のことです。
罪を悔い改めないで、主から離れてしまったイスラエルのことをたとえています。

森の中のほかの木とは、イスラエルの周辺の国々とそこに住む人々のことです。
彼らより、イスラエルが優れていることなどないのです。
ただ、主が愛し選んでくださった。
しかし、イスラエルは、その主を裏切り、罪を重ねたのです。

それなので主は今、イスラエルをさばき、燃やすと言われる。4節。
無用なぶどうの木が、燃やされてしまったら、ますますその価値はなくなり、その存在も忘れ去られてしまうのみです。
今、イスラエルはそのさばきの時を迎えています。
厳しいことばが続きますが、こうして語ってくださるということはまだ完全に見捨てられていないのです。
主は、どこまでもあわれみ深い。

主が、私を森の中から選び出し、移し替えて愛し育ててくださっていることを覚えたい。
その主の前に正しく、愛の応答をもって歩みたい。

シャローム