今日から、レビ記に戻ります。
「あなたがたはあたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」レビ記 26章2節 (2017新改訳)
26章には、主の祝福とのろい(罪に対する厳しいさばき)が示されています。
主に愛されている民として、イスラエルの人々が歩むべき道、即ち。主が与えてくださった律法に従うことが命じられています。
しかしそこには、民が主に背くであろうことも示されています。
主に背いた時には、厳しいさばきがあり、民は苦しむことになると、示されます。
しかしそれでも主は、イスラエルの民と結ばれた契約を破ることはしないと、語ってくださるのです。
さばきの後、主は民に回復と祝福を与えることを示されます。
それは主が、彼らの主であるからです。
主に従って生きることは、罪の束縛から解放されて自立して歩むことであり、それが本当の自由な生き方だと、13節で語られます。
私たちが、主に愛されている者として、自由を間違えないように、主は従順とさばきと、回復を語られるのです。
そんな主のことばに従って生きることの基本となることが、この2節に、二つ示されています。
「安息日を守る」ことです。
それは礼拝を守ることです。
それは当時のイスラエルの民だけではなく、現在の教会の人々にも通じることばです。
日曜日の礼拝を守り、そこから生活をスタートさせて一週間を過ごすのです。
二つ目と言いますか、一つ目とセットになることも示されています。
「わたしの聖所を守る」ことです。
礼拝と聖所、教会は、組み合わされて一緒に大切に守るのです。
安息日を、一人一人が好き勝手に守れば良いのではないのです。
礼拝の場所に、主の民、イエス様を信じる者は招かれ、一つの民となって主を礼拝し、主のことばを聞くのです。
私たちは、今朝もう一度、主の礼拝の民として、日曜日の礼拝に招かれていることを喜び、一週間を過ごしたい。
聖所、教会にともに集められている兄弟姉妹がいることを喜びたい。
祝福と恵み、守りはここから既に始まっているのですから。
遣わされて社会に出て行き、そこで働き、交わり、証しする日が始まりました。
私は、主の民です。それを喜び意識して歩みたい。
シャローム