「この進言は王と首長たちの心にかなったので、王はメムカンの言ったとおりにした。」エステル記 1章21節 (2017新改訳)
 
 
 エステル記を読みます。
 女性の名前がそのままお書簡の名前になっています。
 捕囚の民となり、その後もペルシアに留まって生活をしていたユダヤ人の生活を記します。
 1章は、ユダヤ人の女性であるエステルが、王妃となっていく前に、王宮で起きていたことを記します。
 王妃が王クスルクセスの呼び出しに従わなかったために、王妃の座を追われます。
 
 王妃ワシュティが、自分の呼び出しに応じなかったことで、王の心は激しい怒り、燃え上がっておさまりません。
 主を信じる者が実を結んで行くべき、平安、寛容といった果実とはほど遠いものが、怒りの心にはあります。
 そのため、王は王妃を許さないで追い出します。
 
 王の助言者であるメムカンは、王妃をそのままにすれば、国中の女性が、夫の言うことを聞かなくなるので、追い出し処罰して、王の威厳を保つように進言したのです。
 このような王と王妃の行動と、メムカンの進言があったので、外国人であり、王宮とは縁がなかったはずのエステルがこの後、王妃になっていくのです。
 王と王妃のあいだの出来事を用いて主は、エステルをふさわしい場所へ導くのです。
 不思議な主のご計画は、ここ1章を読む限りでは全く分かりません。
 
 一つ思うことがあります。
 サムエル記第二の6章20節で、契約の箱を町に運び入れた時に、民と喜び踊ったダビデを、妻ミカルは馬鹿にしました。
 しかしダビデは、怒りませんでした。
 自分は主の前にへりくだり、主を喜ぶことを一番としているのだと、告白してミカルを罰することも怒ることもありませんでした。
 
 クセルクセスとダビデの違いはなんでしょう。
 何を一番にして生きているのかで、その人の心が平安に満たされるか、わずかなことで怒りに満たされるかが決まるのです。
 心の中心にイエス様を置いて、怒りではなく平安で心を満たされたいと思います。
シャローム