「塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」 マルコの福音書 9章50節

9章の続きです。

塩が塩気をなくすと言うことが、現代の私たちには理解しにくいかと思います。
当時の「塩」は、岩塩であり,掘り出された岩塩そのものには品質にばらつきがあり,保管方法を間違えると,塩気が抜けてしまって使い物にならなくなったどうです。
塩気のなくなった塩は、価値のない使い物にならない物ということが、知られていたのです。
その塩と塩気にたとえられるのは、信仰者の試練,迫害といったものです。
49節には、神のさばきの象徴である「火」と関連して教えられています。
それは塩気を通して自分自身の中に獲得していく信仰を示します。
信仰者には塩気は必要なのです。

信仰者は、試練、迫害といったものを、避けることばかりを願うのではなく。
試練を通して、自分自身の信仰が錬られていくことを受け止めていくのです。
自分自身に関しては厳しくすることが大切であり、それによって心に塩気を保ち続けるのです。
信仰者は、試練を良く受け止めて、塩気を保って信仰が守られていくことを求めるのです。
そして同時に、隣人に対しては、平和に接することを求めて、塩気のある信仰者の生き方が、周りとの平和を生み出し、証しとなるような生活をするのです。
塩気のある信仰者は、そのような生き方を自分と隣人との間におこなう人です。
それをイエスさまは教えてくれます。
シャローム