「「あの、ののしった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたすべての人がその人の頭に手を置き、全会衆が彼に石を投げて殺すようにしなさい。」レビ記 24章14節 (2017新改訳)

神の御名を汚し、ののしった人が、さばきを受ける場面です。
主が彼の罪を明確にし、さばきをするまで、全会衆は待っていました。
そしてモーセを通じて、主のさばきが示されます。
主の御名を汚す者は必ず殺されなければならないと、厳しいさばきが示されます。6節です。

そして人々は、大切なことを二つします。
一つは、頭に手を置いて、命がけで証言をすることです。
頭に手を置くと言うのは、自分のすべてを相手に移すと言う意味があります。
自分の最高の責任と命のすべてで証言、語るという意思表示です。

そして、複数の人が、その人が確かに主の御名を汚したことを証言しなければ、罪は確定しないのです。
主を信じる人は、主の前に自分の命にかけて、正しく証言しなければなりません。
嘘やいい加減な言葉を口にすることは、主の御名を汚すことに繋がるのです。
証言は、外で、明るい陽の下で、自分の口でしなければなりません。

私たちは、普段の自分の発言や言葉を、このことと同じように大切にしているでしょか。

二つ目は、全会衆が石を投げます。
さばきそのものに関わるのです。
さばきは実行されてこそのさばきです。
証言することは、そこまでの責任を負うことを教えてくれます。
同時に、主の御名が聖いことが、確かであることが示されるのです。
私たちは主の御名を汚す言葉を口にしないはずです。
では、主の御名が本当に聖いことを、自分の命にかけて信じてあがめているでしょうか。

ここは主の御名を汚すという、一読するだけでは抽象的にも思える罪の重さが語られます。
そして同時に人や動物を打ち殺す者という、具体的な罪へのさばきが並べられているのです。
そこには確かなことがあります。
両方とも大切で大切で、大切なことなのです。
主の聖い御名は、私の生活、命に具体的で実体のあるものだということです。
シャローム