「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」 士師記 21章25節

私たちは、幼い子どもを見かけた時に、素直に可愛いと感じたりします。
人が困っていると知った時には、助けようと心が動きます。
なにげない時に夕焼けの空を見て、綺麗だと感じたりもします。
良い心を持っていると感じることがあります。
悪意や卑怯な行いに対して義憤を感じたり、正義を求める心もあると思っています。
しかし、その心は傷ついた欠けのある心とたましいから発しています。ですから不完全で失敗、間違いをおかします。

士師記の閉じる最後のことばは「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」です。
これは正義が行われ、平和で安定した時代だと、言っているのではありません。断じて違います。
王がなくとありますが、イスラエルの真の王とは「王の王、主なる神様」のことです。
主がいなくなったのではありません。人々が主に背き、好き勝手な偶像の神々を慕って、不信仰に生きていることを示しているのです。
世の中は乱れており、人々は疲れ果てて好き勝手に生きている時代なのです。

士師記の時代は、人が神を忘れて好き勝手に生きては、苦しみを経験し、主に叫ぶけれども、助けられるとすぐにまた、神を忘れて好き勝手に生きる時代のこと。
しかし、それでも主は、そんな人々を見捨てないで、何度も助けの御手を伸ばしてくださる時代のことです。
神の愛と、人の罪が明確に対比されて、生活に現れる時代です。
それぞれが自分の目に良いと見えることを行うとき、人は幸いと平安に生きることはできないことを教えられます。
自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求める生き方をしたいものです。

シャローム