「するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」」 マルコの福音書 9章24節

9章お続きです。
息子が口をきけなくし苦しめる霊につかれていた人がイエスさまと話しています。
弟子たちはこの霊を追い出すことができませんでした。
父親は22節で「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と、イエスさまに求めました。
イエスさまは23節で「できるならと、言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と、答えたのです。
そしてこの24節の父親の叫びです。

信じるから、助けてと、聞くと、何かいい加減な言葉のようにも聞こえます。
19節でイエスさまは「不信仰な時代だ」と、嘆いておられますから、特にそのように聞こえます。
しかし父親のここでの「信じます」との叫びは、22節の「おできになるなら」との、声とは別のものです。
22節では、父親は必死に求めると言うのではなく、誰にもできないのですと言う、諦めと悲しみを含んだ吐露で終わっています。

しかし、イエスさまの「信じるものには」との、ことばを聞いて父親は変わったのです。
この方しか頼るべき人はいないと知り、信じたのです。
ここ24節では「不信仰な私を」との告白が大切です。
自分の不信仰を認めて悔い改め、イエスさまのあわれみを求めているのです。
イエスさまは、このように自分の足りないこと、不信仰を認めて、イエスさまにあわれみを求める人を、見捨てたりしないのです。

自分の価値観で、できるかできないを決めるのではなく、自分は不信仰で分からないことばかりですが、イエスさまにはできるのです、あわれんでくださいと言う必死の祈りが大切です。
イエスさまが、私たちに求めるのは、完璧な信仰ではなく、悔い改めとあわれみを求めて必死に祈ることができる信仰です。

不信仰な自分をさらけ出して必死に祈ることが大切なのです。
シャローム