「すると、ギブアの者たちが私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと図りましたが、彼らは私の側女に暴行を加えました。それで彼女は死にました。」 士師記 20章5節

主に愛されているイスラエルの部族の中で争いが起きて、ベニヤミン族は存続の危機に陥っていくのが19章から続く出来事です。
士師記の最後は、この時代がこんなにも荒れ果てており、それは生活の面ではなく、実は信仰の面においてのことなのだということを、思い知らされる私たちです。
ギブアの人たちは、確かによこしまなことを諮り、最終的に一人の側女を死なせてしまいました。
それは赦されることではありません。
それでも良く読めば、ここ5節の側女の主人の説明は、自分に都合の良い説明だけです。自分にはまったく非がないような説明ですが、そうではないのです。
しかし、一番の問題は、このことが起きた原因、そしてこの後、切り分けられた側女の身体を受け取った他の部族がベニヤミン族を討つという行動へと進む背景です。

彼らは自分に都合の良い時だけ、主に伺いを立てます。
しかし、本当はもっと前に主の前に謙遜になり、主に祈り求めるべきなのです。
それができない状況が、この士師記の時代のイスラエルすべての人の問題なのです。

それでも今朝思うのは、このような罪を記して明らかにすること、それを後の時代の人に残すことは主を信じる人にとって大切なことです。
罪を繰り返してしまう愚かさと祈ることさえも忘れてしまう人の姿。
それでもなお、見捨てないであわれんでくださるイスラエルの主、神の愛を覚えることができるからです。

この時も、自分に都合の良いことを並べ立てる前に、この問題をすべて、一刻も早く主の前に注ぎ出して祈るべきでした。
私たちは、主の前に謙遜になりすべてを注ぎ出して、いつも祈る者でいたい。

シャローム