「第6年の第6の月の5日、私が自分の家に座っていて、ユダの長老たちも私の前に座っていたとき、神である主の御手がそこで私の上に下った。」エゼキエル書 8章1節

ここ1節で起きていることは、非常に驚くことであると同時に、現代に生きる私たちキリスト者にも起きることだと感じています。そして身を正しました。

この後、エゼキエルは、イスラエルの人々、長老たち、また、女性たちもそろって、主は見ておられない、主は見ることができないのだと口を開き、主が忌むべきことをことごとく行っていることを見せられます。
隠れて忌むべきことをおこなっているのです。
恐ろしいことです。

しかし、今朝驚いたのは、この1節です。
エゼキエルの経験は、私たちにも起きるのです。

最初に具体的な日付が記されます。
明確な日、そして私たちに日常であることを示します。
そしてそこでは、エゼキエルと長老たちが会議をしているのでしょうか、日常の働き、行動をしています。
日々の変わらない生活です。

そこにまったく別のことが起きます。
非日常、人の思いと行動を遙かに超えた主の介在が、エゼキエルの生活に飛び込みます。
主は、具体的にはエゼキエルに、イスラエルのあらゆる罪を見せます。
主はいつも義であり愛ですが、人はいつもその主に隠れて罪をおこないます。

私の何げない日常の隣で、そして背後で罪があります。
そしてそのような日常に、主は飛び込んでこられます。
主は、いつでも私たちの罪を暴くことができますし、赦しを与えることもできます。

私の想像を超えた主の愛と力は、今にも私の日常に介入してこられるのです。
その時、主の前に、真っ直ぐ答えることができる夕に朝を送りたい。与えられた一日を大切に歩みたいと思います。

シャローム