「こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。」士師記 6章6節

6章の初めには「主の目に悪であることを行った」とあります。
5章の最後は、さばきつかさの活躍によって穏やかであったことが記されているのに、イスラエルの子らはすぐにまた主の目に悪をおこなうのです。
5章のさばきつかさの活躍も、主がさばきつかさを立ててくださって、主が助けてくださったのです。
いわゆる自力、イスラエルの実力ではありません。
どこまでも主のあわれみと助けなのです。
それなのに、すぐに悪を行うのです。

主は、彼らを放っておくことはできません。
何故なら主は、完全な義の方ですから、悪、罪をそのままにすることはできないのです。
主は今回、イスラエルの子らをミディアン人の手に渡されて、彼らミディアン人によって苦しめられることになります。
しかし、完全な義の方は、同時に完全な愛の方であり、あわれみ深いのです。

主に叫び求める声をそのままにはされないのです。
主は、罪をそのままにはしません。必ずさばきます。しかし、主は赦しと回復をなくしてしまわないのです。
私たちをさばくことができる方は、それはすなわち、私たちに命を与え、私を愛してくださっている主だけです。
そして主は、私たちの叫びに答えてくださるのです。主は、待っていてくださる。

私たちの日々で大切なことは、赦されて安心するとすぐにまた、主の目に悪をおこなうのではなく、いつも主の愛に立ち返り、主にのみ助けを叫び求めることです。
主の助けがいらない生き方ではなく、主の叫び求めることができる生き方を自分のものとしたい。

シャローム