「わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払おう。」出エジプト記 34章11節 (2017新改訳)
主は、もう一度あの十戒が刻まれた石(最初のものは、民の罪を目撃したモーセが怒って砕いてしまった)を、刻んでくださるという。
それはあの酷い罪をおこなった民を赦し、主が結んでくださった契約が有効であることを確認してくださるということなのです。
あんな罪を最初におこなったのだから、契約はなかったことにされたとして、誰も反論できません。
しかし主は、赦し、回復してくださる。
そして主は言われます。
敵となる者たち、妨げとなる者たち、誘惑となる者たちを追い払おう。
見よと、言われるのです。
それは私たちに分かる形でおこなわれるのです。
だから主は、極く当たり前のことを求めます。
「主の命じることを守れ」
ところが私たちは守らない。守ろうとしない。
そして守らなければ、祝福してくださらないなんて、神はひどい、心が狭いなどと、訴えるのです。
どちらがひどいのか。
愛し。
犠牲を払い。
忍耐し。
回復し。
赦した主のことばを守ることが、嫌なのが私たちの性質です。
でも、主は赦し回復してくださった、このときにも既に、次の祝福を与えると、恵みを先にくださるのです。
守れと、声を掛けていただけることを喜び、受け止めたいのです。
それは見放されていない、見捨てられていないということでもあるのですから。
主のことばを守ることの喜びは、従うときに味わうのです。
シャローム