「わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」出エジプト記 33章23節 (2017新改訳)
主は。モーセと天幕で会ってくださいます。それも人と人が顔を合わせて語るように語ってくださる。
他の人との間ではないことです。
そして大切なことを教えてくださるのです。
モーセもまた、主に、主の栄光を見させてくださいと、大胆に切実に願います。
モーセは興味本位で願ったのではなく、自分の権威付けや力を民に誇るために、特別なこととして願ったのでもありません。
主が、イスラエルの民を特別に愛してあわれみ、約束の地を与えてくださり、そこまで導いてくださることの確信を深めたいのです。
それは民が、主が語られたとおりに頑なで、直ぐに主に背き、またモーセにも反抗する者たちだと知っていたからです。
民の動向や言葉に、モーセが惑わされたりしないように、主の約束をしっかりと、自分のものとしたかったのです。
主は、モーセを特別に召し出して使命を与えてくださったのです。
他の人とは決してしない方法で、親しく語ってくださるのです。
その主が、特別にモーセに栄光の姿を見せてくださる、現してくださるのです。
しかしそこには制限があります。約束があります。
主が直接、手をのけてくださるのです。そして主のうしろを見せてくださる。
しかし顔は見られません。
私たちは、主に特別に愛されています。
主が、ご自分のいのちを犠牲にして、私を罪から救い出してくださるほどに、その愛は深く、あわれみは尽きない。
けれども、私たちは知らなければなりません。
私には主のすべてを知ることはできない。
主が私にもっていてくださる計画のすべてを知ることはできない。
いや、知らされたとしても、そのすべてを理解して、受け入れていくことはできないのです。
私たちは、知ることができることと、知ることができないことがあることを、わきまえるのです。
しかし、主は私への愛をもって、私が知るべきことを知らせてくださる。
すべてを見ることを望のではなく、知ることができないところにこそ、主の、私への深い愛による恵みの計画があるのです。
知らないことがあると言うことは、知らされるときが来て、今よりもっと素晴らしい恵みを主から受け取る日があるということです。
主の恵みは、今の私にすべて知ることができるほど小さく、低く、浅いものではないということです。
期待しよう。
シャローム