「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に行った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」」出エジプト記 32章1節 (2017新改訳)

モーセがシナイ山に上り、十戒(ここではさとしの板と記される)を受け取っている間に、麓で待っている民は、罪を犯します。
それも神、主以外の神々とその偶像を求めるという、最悪の罪です。

モーセがどうなったのか、分からないと、民は不安と不満を口にします。
平安がなくなり、主だけを信じて、静かに待つことができないのです。
そんな不安が心を支配するとき、私たちは罪を犯してしまう。
不安なときこそ、主への信仰が私たちを支えて救ってくれるのに、直ぐに自分の力で解決を図って罪を犯すのです。

ここで「われわれのための」ということを、民は口にします。
これが最大の間違いであり、罪の始まりです。

われわれのために、神がおられるのではない。
われわれの願いを叶えるために、神の力があるのではない。

神のために、私がいるのです。
神のために、生きることが私が存在する真の価値を与えてくれます。
私のための神を求める限り、不安になったり、試練に会うときに、信仰が崩れて罪に誘惑されてしまうのです。
しかし神のために生きるときには、試練の中でも導きと助けを信じて、雄々しく歩めるのです。

もし、分からないことがあるなら、そのまま主に委ねて静かにみことばに従うことが最善です。
分からないからと、自分で答えを造り出しても解決からは一番遠くなります。
委ねること。分からない知らないことがあることを、受け入れていきたい。
シャローム