「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。」マルコの福音書 15章47節

「よく見ていた」
よく見てた人、マリアたちがいたのです。
イエス様がとうとう祭司長たちによる冤罪、嫉み、偽証、そしてピラトの保身によって十字架で処刑されてしまいました。
しかも通常の苦しんだ末に亡くなるよりも早い時間で亡くなったことが報告されると、ピラトは驚くのです。
密かにイエス様の弟子となっていたアリマタヤおヨセフは、イエス様の亡骸を引き取る許可を取り付け、お墓に納めました。

この一連の出来事をマリアたちは、よく見ていたのです。
よく見ることは、イエス様が語られたことをよく聞くことに繋がっています。
イエス様のことばは実現します。私たちの生活の中で生きています。
ただの「文字」ではないし「黒いインキの模様」でもない。
また空しい言葉や声でもない。

生きて力があることばであり、いつくしみに満ちたことばです。
そのことばを語ってくださったイエス様の生き方は、どのようなものであったのかを、よく見るのです。
その姿は、私にどのように関係があるのかよく見るのです。
目を覚ましてよく見ることで、よく聞くこともできます。

シャローム