「同じように、信仰も行ないが伴わないなら、それだけでは死んだようなものです。」ヤコブの手紙 2章17節 (2017新改訳)
聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、ヤコブの手紙です。
ヤコブの手紙、ペテロ1,2とヨハネ1,2,3,それとユダの手紙は「公同書簡」と呼ばれています。
それはこれらの書簡が、一地区の教会宛てではなく、もっと広い埴の教会で読まれることを目的として記されたからです。
新約聖書には四人、ヤコブと言う名前の人物が登場します。
その中から、この手紙を書いたと考えられるのは、イエスの地上での兄弟ヤコブです。(マタイ13:55等)
彼は、イエスが召天後にはエルサレム教会の重要な指導者の一人となっていました。
この手紙を書いたのも、この頃、各地に散っていて、そこで試練にあっていたキリスト者を励ますためであったと、考えます。
特徴の一つは、神学的、教理敵な面を指導する内容ではなく、信仰生活においての具体的、実践的な面を強調する内容だと言うことです。
この手紙の実践的な内容について気をつけて読みたいことは「行ないによる信仰」を教えるのではないという点です。
パウロが教える「信仰義認」については、ヤコブも一致しています。
ただ、ヤコブは信仰の実、良い実を結ばない信仰はないのだと言うことを示すのです。
選びましたことばは、第三版の訳では「信仰も、もし行ないがなかったら」と、訳します。
2017版の「伴わないなら」と、訳すると、ヤコブの意図が良く分かります。
また「それだけでは」の箇所は「それ自体」とも訳せます。
信仰は、生きることであり私自身です。
行ないが全く伴わないような信仰では、信仰とは呼べないのだと、ヤコブは訴えるのです。
同時に、試練に会い、困難を経験していても、良い行ないと言う実を結んでいる信仰ならば、かの日に主にお会いした時に、喜びに溢れることです。
行ないを伴いなさいとのヤコブの厳しい勧めは、強い励ましでもあると感じます。
「信仰の証し」と呼ぶと緩やかな感じを受けますが「信仰の良い実」と、言われると身が引き締まる気持ちです。
シャローム