「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行ない、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、」 マルコの福音書 7章21節
7章の続きです。
イエス様は、食物をすべてきよいとされました。
食べた物は、人の身体の中に入り、やがて排泄されますが、それが人を汚すことはないのです。
これは旧約聖書の律法で「汚れた食物」が定められていて、を食べていけないことになっていたユダヤ人には驚くべき教えです。
もちろん、イエスさまが教えたいのは、人の心の中にある悪い考えが、隣人を傷つけ、苦しめ、汚すのだということです。
そしてその心の中にある悪いものは、自分ではきれいにできないのです。
それをきれいにする、きよめることができるのは、真の神だけです。
でも、どうしてこのような悪い考えが私の心の中にあるのでしょう。生まれ出てくるのでしょう。
それは心が、神を愛する心で充ち満ちていないからではないでしょうか。
神を愛する心で私の心が一杯なら、余分な悪い考えはそこに入り込む余地がありません。
神を愛する心からは、神と隣人を愛するということが出て来て、ここに上げられているような悪い考えは出てこないでしょう。
そして心が一心に神に向っていなければ、私の献げる礼拝も形ばかりのものになっていくでしょう。
私のからだも心も、神さまが造ってくださったものです。その心を良い考えが湧き出てくる神を愛する心で満たしていたいと思います。
ここに「ねたみ」という言葉があります。聖書の直接の表現は「悪い目」となっています。
悪い目で隣人を見るから、ねたみとなっていくのです。
悪い目とは、悪い心で内側が溢れ、レンズが内側から汚れてしまい、正しく、綺麗に見えないのだと思います。
レンズの外側をいくら磨いても、内側が悪いならば、その見かた、考え方は変わらないのです。
ですから、私には私をきよめ、愛する心を与えてくださるイエスさまが必要なのです。
シャローム