「どのようなときにそれが汚れていて、また、どのようなときにそれがきよいのかを教えるためのもので、ツァラアトについてのおしえである。」レビ記 14章57節 (2017新改訳)

ツァラアトに冒されたあらゆる患部、疥癬、衣服と家のツァラアト、腫れもの、かさぶた、斑点についてのおしえであると、ここを結びます。
ツァラアトがどのような病であって、その原因でなんであるのかについては、なにも示しません。
それどころか、人の身体と建物に現れるツァラアトまであることが示されます。
同じ病だとは思えないのですが、そこにはなにも触れません。
しかし、ツァラアトであるのかどうかについての判定の仕方、癒されてきよくなったことを公にするまでの手順と、そのために献げるいけにえの献げ方についてを詳しく示します。

大切なのは、ツァラアトに冒されて汚れたことを認めることと、そこからきよくされるまでの方法を守ることです。
この教えは明確に守らなければなりません。
ツァラアトに冒された人は、自らそれを告白することも求められるほどなのです。

何故?ということではなく。
どう!主のことばを聞いて守るのか。
それが問われているのだと思います。

ただし、この律法を守り運用するのはとても難しいです。
イエス様が活動された時代には、既に多くの偏見が入り込み、間違った運用、過度な適用があされていて、ツァラアトに冒された人が苦しめられていました。
主が、この律法を与えて守るように命じたのは、民を愛し守るためです。
しかし人は、ツァラアトに冒された人を守るよりも、排除する方に進みました。
私たちが、主のことばを聞いて律法を守るときに失敗をします。
神の愛の律法を、愛と憐れみと共観を持っておこなうのではなく、人がおこなう律法は、道を間違えやすいものなのだということを覚えておきたい。

神は愛であり、神の律法は愛と義とあわれみに富む。
私たちは律法でさばかれるのではなく、律法で生かされるのです。
そのためにイエス様が犠牲を払われたのです。
シャローム