「人にツァラアトに冒された患部があるときは、祭司のところに連れて来る。」レビ記 13章9節 (2017新改訳)

ツァラアトに関する規定です。
ツァラアトには、人、建物、衣服に現れるものです。
身体の表面などの患部を見て、その人が汚れていることを宣言し、またきよいと宣言することが定められています。
その働きは祭司がします。
人の目で見た皮膚に現れた病の患部ですが、医者のところへ行って判断するのではありません。
これは祭司の仕事です。

病によって汚れるのではないのです。
主の前に汚れているか、きよくなったのかを宣言するのです。
病そのものが、どのような病であるのかは不明です。
問題とされるのは、汚れていると宣言されたら、きよいと宣言されるまで、通常とは違う生活をするということです。

病の人を差別するための規定ではありません。
誰でも、突然ツァラアトになるのです。
そして汚れている者として、きよくされるのを待たなければなりません。
祭司は、どこまでも主の前にこの働きを果たします。

主の前にきよいのか、そうではないのか。
私たちは元々、罪の中に生れ、罪を持って生きていました。主の前には汚れていた者です。
今、私たちは主の前に、きよい者として歩みたいと切に望んでいるのかどうか、そんな心と行動が問われると感じました。
恐れながら、主の前に自分の全てをさらすのです。
患部は祭司に隠せたとしても、主の前には心を隠せない私たちなのです。
主は恐れつつも、主の前に来る者を拒まれません。
主が犠牲を払い、代価を支払って、私をきよくしてくださり、きよいと宣言をしてくださるのです。
主の前に、今朝も主の前に進み出よう。
シャローム