「そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」エズラ記 8章23節 (2017新改訳)

エズラは、神の宮に仕えるも者たちを探しだします。
そして神の宮でレビ人とともに祈り、献げるためにエルサレムに行くのです。
その時、エズラには心配なことがありました。
敵対する者たち、宮の再建を喜ばない者たち、エズラを憎む者がいたからです。
彼らは、エズラたちの旅の道中に襲いかかり、邪魔をするかも知れないからです。それだけでなく、、命の危険もあったのです。

ここを読みますと、信仰者の持つ弱さと、貫くべき信仰の姿を学ぶことができます。
エズラは前の節で、王に道中の警護を頼むことを恥じたと明かします。
神の御手が、神、主を愛する自分たちの上にあることを告白して、王に伝えており。
同時に、神を捨てる者には、神の怒りが下ると、王に語っていたからです。

しかし、危険はあります。心配なのです。
エルサレム周辺には、この時、確かに敵はいるのです。
屈強で熟練の王の兵士による警護があれば安心なのです。
しかし、それを頼り求めるのは、信仰がないと思われます。
エズラの信仰とは、その程度かと思われます。
いやいや、神、主の力はその程度かと、王に思われてしまい証しになりません。
しかし、不安もあります。
しかし、王に求めるのは恥だと思うのです。

これがエズラの弱さです。

しかし、迷いつつ、恐れも経験しながらも神に祈ります。
弱いところを通ってなお、神、主にだけ守りを願い求めること。
確信を持って、断食をして祈ることをします。
すると、神は答えてくださるのです。

弱いまま、祈り求めて動くことをしないならば、この主の助けを経験できません。
弱さを持ったまま、しかし、神、主に祈り求める時、私たちは主の愛と力を経験できるのです。
エズラだけでなく、私も経験できるのです。

私の弱さを持ったまま、しかし、全能で愛の方である私たちの神、主に信頼して祈り委ねる時に、私たちはこれを経験できる。
喜びと平安と希望を味わうのです。
シャローム